前奏の間に目を閉じてみたら記念講堂が見えた。制服を着て響かない講堂で辛くて苦しくてでもこれで一旦終わりなんだなと必死に歌ったあの日を思い出した。

 

目を開けたら流川教会で、大好きな指揮者が『春』を振っていた。

その向こうには先生もいて演奏を聴いてくれていた。

 

「こんな素敵な曲をこんな気持ちで振るのは辛かった」

 

みたいなことを8年?9年?前に高校生だった私たちは本当は一番認められたかった相手に最後の最後に言い放たれたわけだけど、あれから自分は何かしら成長できたのだろうか。

 

あの時感じでいたドロドロとか、子供だったこととか、考えられなかったこととか、今はもう全部きれいさっぱりなくなってるのだろうか。

 

いや、時が経てばそんな先生も人だったんだなと思うこととか、私たちも大人になったなみたいなこととか、恋もしたし、社会人にもなったし、ある程度気持ちって消化して昇華していく、でも、あの時の苦しみがなかったら今はないんだよねと思う。

 

誰かと一緒に悩んだり、一緒に悩めないこともあったり、集団の中での立場役割の重要性とか、存在意義とか、自分の根本を作ってくれたのは結局それらの経験だったなぁって。

 

でも苦しかっただけじゃないな。

 

はーちゃんが見つけてきて、みんな中部屋でカメラを囲んで、好きな人も好きじゃない人もいたけど、これは!いい曲だね!やろう!って私たちが唯一自分たちで納得して決めたものが『春』だった。

 

何もできなかったけど、これはやり切りたいと思って取り組んだ『春』だった。

 

その時の全力はプラスで終えることはできなかったけど、そのプロセスが今となっては愛おしいし大切だったことが分かる。

 

一曲歌うだけでそれくらいいろんな記憶が蘇ってきたけど、でも私は今、この曲を単純に楽しく歌えてる。大好きな仲間がいて歌うことを楽しみとして、今を生きている。

 

『過ぎ去った陰惨な冬の苦しみはもう言うまい

地上は明るい輝きに満ちた春の朝だ』

 

過ぎていく日々の中でそういう気持ちをくれる合唱はやっぱりすごいなと思った瞬間だった。

 

そう思えるようになった自分を作ってくれた関わってくれた人たちに恩返しできたらいいのに。

 

まだ変われる自分がいるよね。

 

私はもう悲しむまい

楓もアケビもヤツデも藤もどうだんも

親しいものが訪れた

輝かしい恵みの春だもの